昭和43年10月3日 朝の御理解
御理解第43節「死んだからというて神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお 願いせよ。」
「死んだからというて神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ。」どうぞ病気なら病気をいたしておりますと病気が全快のおかげを頂かなならんというて、色々とてを尽くします。医者じゃ薬じゃと。でもいけんなら神様にお願いしてでもというて、まあ、神様に一心におすがりをしてお願いをするのです。ところが、まあ養生の甲斐もなく神様にお願いをしたにも関わらず、死んでしもうたと。これだけ神様に御すがりしたのに神様のおかげを頂ききらじゃったと言うてそこから信心をおろそかにしたのでは、ここでは、死んだからというてもやっぱり神様のおかげを頂かんわけにはいくまいが。死に際にもお願いをせよと。そこからの信心が大事だと。死んだからと言うて天地の親神様のご恩徳に(?)と言うことはない。やはりおかげを頂かなければできんのでありね、そこで私は御理解43節からこのように頂いてよいと思うのです。例えば商売をいたします。ね。一つの商いをいたしますのに商いが成立しない。成就しない事があります。ね。
一時間も二時間もねばっておられてまあ色々といたしますけれども本当は場合によっては何日間かかかるといったような事があるかも知れませんよね。(?)ですから。それでいて、結局はその商いが成就しなかった。成立しなかった。かというてですね、からというてそんなら、それから先もおかげを受けなければいかんのですから。ね。例えそれが不成就であり不正につながってもそれから先のことをまた願わせてもらう信心。そこのところを大事にさせてもらう信心。ここんところを私は信心させて頂く者の心かけなければならんところだと思う。
先日私はあの、娘のおともで久留米に買い物についていった。良い服を買わなければならんという事で、それである、洋服店に入りましてからいわゆる、まあやっぱり一時間くらいかかりましたでしょう。店員さんはかかりきりで脱いだり着たりいたしますね。それでもどうしても、これは柄がいいなというのは寸法が足りなかったり、寸法が足りるのは柄が気に入らなかったりとうとう、もう一時間もかかって色々見せてもらったのですけれども、本人が気に入るものがなかった。せっかくこうやって見せていただいたけれども、この次にいたしましょうと。と言う事になってきた。向こうの店員さんが最後の方になったら少しイライラして参りましたですね。そして、肩がこう、肩んところがこうやってこちらに出ておるのですよ。( ? )それでもですね、これはいいですよちしゃっちそれを押し付けようとする。もちろんそんなものは買おうと思わないですね。そんなんでもうイライラしてきて、店員さんのほうがイライラしだしてから、それでまあ結局この次にいたしましょうと言う事で(?)何か小さいものなっと買おうかと、二階の方が洋服があって下のほうがまあ、小物、下着類が売ってあるお店ですから、だから、下のほうで下着なっとでん買わせて頂こうと。ね。例えば洋服一枚でも一万円近くもするようなものですから、その自分のいくら(?)柄がすかんけれども色がすかんけれども買うと言うことはできません。やはりきちっと自分の体にも合わなければならん、気にいらなければその、5円10円のものじゃないですから、これでよかよかというわけにはいかんのですよね。買うほうといたしましても。ところがあいにくそれがわかっとる。それで、その、( ? )店員さんが、もうそうですかそんなら、こちらの、(?)もう一時間もかかって粘って売れなかったもんですからね、もうモヤモヤしてきたんですよね。それはもう、下のほうで、大体下から持ってきて見せてくれるわけなんですよね。大体は。(?)下で自分達で買っていって下さいと言わんばかりの態度をとったんですが、さあ、下に下りてもう、下で買うて行こうという気がしなかったんですけれども、もう、帰りがけに話て帰った事ですけれども、あそこに行け( ? ) 一時が万事同じ事。あのときにどうだろうかね、本当に、お気に入りがなくて済みませんでした。またこの次お願いしますというようなことであったらもう絶対、私達はあそこのお得意さんになってしまうじゃろうにねというてその、帰ってきたことでした。
ね。一時間もまあいうならば、親切に始めの間はこれはどうですか、あれはどうですかと言うて下さったのが、なら、だんだん、一時間も経って4着も5着も着たり、(?)その着たりしよりますと、やっぱり向こうもモヤモヤしてくるわけですね。そして最後にはいわゆる、何というですかね後口の悪い出方をしなければならない。
それでもうあの店には行かんという気すらする。わざわざご迷惑をかけたけれども、かけたけれどもそんな気がする。ですから私はね、ここんところが、例えば商いがあろうがなかろううが、いやそれが例えば冷やかし客であろうがです、それを大事にするというその心根が神様の機感にかなうのです。ね。これは神様の心にかなうのではない。人間の心にだってです、はあ、本当に(?)買いもせずに気の毒かった、そうやったこの次に買うときにはまたここでまた買うよという気持ちで私はあの帰らせて頂くものをです、もうこんな店で買うもんかということになる。人間同士で与えるのでもそうですから、神様の心に機感にそれがかなわんはずです。いわゆる、死に際にもお願いをせよと。というのはそういうような事にも頂けれると思うのです。私は案外そういうようなことがですね、私共の生活の上に(?)がないかとこう思う。お商売にかかったことだけではありません。
ね。もう、最後の五分間といったようなことを申します。その最後の五分間を大事に出来る人が私は事に成功するというだけではなくてですね、そこを大事にする心がけが神様の心に通うと思うのです。ね。私とも商売をさせて頂いてやはりそこの体験がございます。やっぱり最後のところになってくるとこの人に( ? )売りつける。売りつけることだけが商売上手という風に私共もそういう風に思うておったがですね、商売をさせて頂くならばです、そういうような場に立ったときにです、本当に(?)なかったんだから、ね、この次にお願い致しますとお気に入りがなくて済みませんでしたとこう、お詫びを言えたり、お礼が言えたりするような心で商いをしたら本当に繁盛をしておったであろうと自分で思います。
けれども、そこんところが大事にしなければならんところですね。一時間も待ってからもうという心がけがですね、雰囲気に出てきたり言葉に出来てきたりしたんじゃね、相手の人にも感じがよくないでしょうけれども、それが神の機感にかなわん。いうなら、(?)よかということじゃないでしょうが。ね。後はやっぱりまたおかげを頂かなければならん。後々までもお得意さんになってもらわなならん、だけではない、そういう例えばその死に際にも大事にする。もう、商いが不成就に終わってもです、そこんところを大事にするような心がけがその人には(?)じゃなくても次の人のおかげの頂けれるお繰り合わせが頂けれるのが信心。そこんところを大事にさせて頂くような私は心の上に神様はおかげを下さるのですから、その人には商いが出来なかっても馬鹿らしいようであってもそこんところを大事にするような、信心が私はどうでも必要である。そこんところをいっちょ心がけなければならないと思う。
ですからもう、最後の五分間を大事にすることは最後の五分間( ? )押し付けていこうといったように励めというのではなくてですね、それは売れなくても、お気に入りがなくてすみませんでしたという心持ちなんだ。ね。だから、お客さんこの次にまたどうぞお願い致します、というような私はあの商売の仕方。生活態度ですねいわゆる。皆さん、どうでしょうか、そういうところが投げやりになっておるようなことがないでしょうか。最後の五分間というところがただ、がんばるというだけではいかんのです。ね。その最後の五分間がです、初めのときよりもです、例えばこの人はまあ、よかなんと申しましょうかねよかお客さん。こげなよか商いが出来るぞと思った時のような心持ち以上にです、ね、始めの間は愛想もよい。ところがだんだん、三十分四十分というてから(?)言い出してくるとです、もうモヤモヤしてくる。(?)ほうが。
ではなくてです、ますます良くなってくるといったような頂き方はないもんだろうか、そこをいや信心さえてもらう。最近頂いておるように、そういうところが修行と思うて最後の最後まで、実意丁寧をもって接しさせてもろうて結局は不誠実に終わった。とうとう買わんでかえらしゃったけれども、返し際が素晴らしい。ね。これはあの、お客さんがあの来客がありますね、まあお茶を出したりご飯を出したりしますよね。まあ色々そこまではよいけれども、帰り際にいやな感じで(?)ありますよね。そういうときにもう家族をあげて例えば表の玄関まで送ってきてから、ね、さよならを言われるそういう、まあとても気分がよいでしょう。最後は大事にされるとこういう。始めはそうではなかったけれども最後が素晴らしい。
ね、これはまあ大変ないわば御理解ですよね。人間が生きる死ぬるということですから、人間の重大問題がここに取り上げられて死に際にもと言う事をいうような言葉を使って教えておられますけれども、これは生きる死ぬるといったような事ではなくて、もう茶飯事の中にはいわゆる、商売人であるならば対お客さんとの場合、ね、それがよし相手が冷やかし役であってもね、その先におかげを受けなければならんのでしょうが。ですからその事を大事に実意丁寧にならせて頂くというその心がけがいわば、あの世でもおかげが頂けれるようにですね、そういうところを大事にしていく。例えばその、冷やかし客であっても、あげんされるなら、こんど本当にあそこで買おうといったような気持ちで帰れるように、実際買おうと思うて行ったのだけれども気に入るものがなかったから買わんだけで帰るのだから、なおさらそこんところを大事にしてです、むしろお気に入りがなくて済みませんでしたとわびるような気持ち。そこには次のお繰り合わせが頂けれる。ね。
これはですね、皆さんそういう事は沢山有る事ですよ。もう、私は、商売人ですから商売の事にすぐ走りますけれども、これは日常のいろんな問題の場合なんかでもそうです。どんな場合でも。もうよかよかといったようなことではなくてです、せっかくこれだけを一生懸命させて頂いた、最後のところをよかよかで、ザーっとやっていく人がある。最後のところをです、最後の五分間、ね、なぜかというとそれが神の機感にかなうのです。そこんところを大事にする事が神様の心に通うのです。ですから、次のおかげの道がもうそこにいわば手がかりが出来ておるようなものです。ね。次のおかげの手がかかりを頂くためにもです、ね、死んでからもまたおかげを頂くためにもです、死に際を大事にしなければいかん。そういう意味でこの43節ですね、頂いたら有り難い。死んだからというて神のおかげを受けないわけにはいくまいが。死に際にもお願いをせよと言う事を日常の上に様様な事があります。ね。最後のところを大事にしていくというような心持ちを神様の心にかなうと言う事が分かってからそこんところをとりわけ大事にさせて頂く信心を頂きたいもんです。
どうぞ
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